文字の変遷 その3

東周衰退後は、百余りの国が興亡を繰り返し、ついには紀元前221年秦の始皇帝により
中国が統一されました。
始皇帝の行った国家経営は、土木、芸術、政治、全てにおいて大きな業績を残しました。
万里の長城、兵馬俑、咸陽宮の造営、貨幣、法度権量、律暦、そして文字、思いつくだけでも途方もない規模です。

文字も重要な政策のひとつとして統一されました。その実体は、列国が独自の異体字を使用していたので、交流に困難をきたし、秦の命令が徹底しませんでした。
そこで丞相の李斯らに命じて、秦文に合わないものは排除したり、古文字を省略して文字を作ったと言われています。
その文字は「小篆」といい、画数が少なく、縦長で、丸みを帯びた、優雅で左右シンメトリーの格調高い書体です。
以後、書道史では、秦の始皇帝が、文字統一したものを「小篆」それ以前の古文を「大篆」と呼んでいます。
始皇帝は、38歳で天下を統一すると、全国各地に巡幸し、先々で盛大な祭典を行い、 石に自分の善行を称える石碑を建てました。現存する泰山刻石、瑯邪台刻石は小篆の 代表作と言えます。

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しかし、優美な小篆は書くのに時間もかかり、実用性に欠けていて、しだいに湾曲した線や象形は姿を失い、形式に囚われない点画へと移行していくのです。これが隷書の始まりです。

 

専制君主で急成長した秦は、また崩れるのも早く、各地で不満を抱いていた地方の勢力者たちはいっせいに立ち上がりました。項羽と劉邦の戦いはよく知るところです。
起源前202年、劉邦が帝位につき漢の高祖となりました。漢は前漢、後漢をあわせると 400年に亘り、政治、経済、文化のいずれも著しく発展しました。
日本では漢が中国をさす語として、漢字、漢詩、漢方など漢がいかに大きく位置するか これだけでも想像がつきます。
書道史においても漢代は文字が激しく変動しながら形成された時期です。秦代においては
大篆が簡略化されて小篆になり、漢代では、隷書が実用の文字から公用の文字になっていきます。また、その一方では草書体が現れ、隷書と草書をあわせたような波磔(波のようにはねる)のある章草が普及していきます。
磨崖、瓦当文、印文、簡牘、字姿は様々で、紙もこの時期に発明されました。

前漢中期から後期にかけての筆跡は、20世紀に入り西域の探検が盛んになり、敦煌や楼蘭などから木簡が発見され、実際に書かれた最古の筆跡を見ることができます。漢代は、 まさに書を学ぶ人には宝の山で、五鳳二年刻石、木簡、石門頌、乙瑛碑、孔宙碑、礼器碑、曹全碑、張遷碑、芝白帖、等々圧倒される書が並びます。

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しかし、いつの世も表舞台の書の裏で、日常的な書写に効率的な簡略文字が生まれてきます。

この後、草書、そして、私達にも馴染みのある行書が生まれ広がっていくのです。