文字の変遷 その2

現在、最古の漢字は甲骨文字だと言われています。甲骨文字とは、占いのために亀の甲羅や獣骨に刻された象形文字のことです。

 

「史記」などの伝えるところから殷王朝は祭政一致で、王は宗教的に絶対の権力を持つ神として君臨していました。生活の殆どを占い(ト辞)により決め、王に従属した貞人と呼ばれる卜辞の集団が存在し、毎日のように占いが行われていました。占いの方法は、亀の甲羅や牛の肩甲骨を形成加工した後に文字を刻み、裏に深い切れ目を入れ火で炙ります。するとひび割れが生じ、そのひびの形によって吉凶を占うのです。どれが吉で凶なのかは解明されていませんが、その内容や結果を亀裂の側に刻しました。

 

甲骨は1889年、河南省の殷墟で発見されて以来長年に亘り発掘は続き、膨大な量が出土しました。現存する甲骨片は10万点に及びますが、これらは甲骨学者・董作賓らの研究により時代別に5期に分けられ、その特徴が表されています。小刀のようなもので刻された文字は、それぞれ時代の特徴はありますが、線は直線的、造形は絵のようで、目、山、馬、像、鳥など専門知識はなくても読めますし、臨書しても幼少期のいたずら書きを思い出すようで楽しいものです。陶文から3000年を経て古代の人々は、筆や小刀を用いて文字を記し始めたのです。

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また、殷周時代になると、甲骨文字の他に、怪獣や動物などをデフォルメした青銅器も現われます。殷の最後の紂王は、いわゆる「酒池肉林」で最後は周の武王に滅ぼされた話は有名ですが、周に入ると、文字も甲骨から金文へと移行し、やがて甲骨は消えていきます。

金文とは、青銅器に鋳込まれた文字のことで、字形は丸みを帯びて絵画的です。

 

周代は宗教性は希薄になり、王室を中心とした封建制度が確立します。王が諸侯に青銅器を与え、主従関係を示したり、結婚、土地の訴訟、戦争の記録文などに青銅器が使われたりもしました。周は、西周が約300年、洛陽に遷都の後(これが東周)約550年続きます。この間、書風は大きく変わります。西周前期の金文は力強く、字粒は大小があり、肥筆も見られます。中でも「大盂鼎」はこの時代の代表作です。中期から後期になると、線が細くなり、字粒も字形も整ってきます。「毛公鼎」や、昨年日本でも展示された「散氏盤」などは西周後期の作です。紀元前770年の洛陽遷都後は、事実上諸侯の力が強くなり、それぞれの諸国が独自の文化を創ります。諸侯が各自作器したため、書風は多様化し、各地方で異なる金文が生まれます。北方の小国「中山王さく鼎」や南方の楚国で作られた「楚王酓かん鼎」などは、独特のリズムとスタイルで今に通じる洒落た作が見られます。

また、この時代は、石鼓文も登場します。これは、石鼓という石に刻まれている字のことです。現存する石は10個あり、高さ90センチ、直径60センチの太鼓の形をしています。元は700字あったようですが、現在では磨滅して200数十字しか残っていません。

西周

東周

 
以後、正式な文書を記録する素材は、耐久性があり、青銅器より簡単に刻すことができる石へと変わっていきます。そしてやがて毛筆の時代がやってくるのです。